2010年08月12日
もう25年。。早いね。
日航機墜落事故からもう25年。
当時自分は11歳。
あのときテレビで見た衝撃は、阪神大震災の時同じくらいのものがあった。。
その墜落事故の遺族の方の記事が今日のヤフーニュースに掲載されていた。
===========================================
「そろそろ立ち上がらないと」=事故当日にけんか、責め続けた兄―遺族会活動に
「忘れることで逃げてきたが、そろそろ立ち上がらなければと思った」。1985年8月の日航ジャンボ機墜落事故で弟を失った美谷島真さん(38)。母邦子さん(63)は事故の約4カ月後、遺族でつくる「8・12連絡会」を発足させ、事務局長を務めてきたが、真さんはつい最近まで表立った活動はせず、取材も受けてこなかった。その背景には、封印したい記憶があった。
事故があった8月12日、当時13歳だった真さんは、高校野球観戦のため大阪に一人で旅立つ直前の弟健ちゃん=当時(9)=と、カードゲームに興じていた。ささいなことから口げんかになり、思わず「お前なんか帰って来るな」。そう口にした。健ちゃんは本当に帰って来なかった。
事故の一報が入ったその日の夜、「健は悪運が強いから絶対生きて帰って来るよ」。1歳年下の妹とそう励まし合いながら夜通し泣いた。一睡もできなかった。
自分のせいではないと分かっていても、弟のことが頭をよぎるたびに、「あんなことを言ったから…」と自責の念に駆られた。つらい気持ちから逃れるため、忘れようと努めた。
事故から25年を迎える今年、母が出版した「御巣鷹山と生きる」を読んだ。「安全」への取り組みに事故後の人生をささげる母の姿。両親が連絡会をつくった時と同じ38歳になったことも背中を押した。「事故を風化させないために、自分も何かすべきだ」
今夏から、連絡会のホームページの立ち上げ作業に携わるようになった。「できることから手伝ってほしい」。これまで何も言わなかった母が初めて声を掛けた。
=========================================
人は突然死ぬ。。
ほんの数分前まで言葉を交わしていたのに
一瞬でその命を奪われることがある。
その時交わした最後の言葉が、残された遺族の人生を左右することは
自分もよくわかっている。。
自分は親父と喧嘩をして家を出た。。絶縁ではないためその後も行き来はあったが
数年間、まともに口をきくことが出来なかった。。
しかし、あることをきっかけに、そのわだかまりがゆっくりとだが解けつつあった。
でもそんな簡単にうまくはいかないのが世の中。。
これからだんだんと親孝行をしようと心に誓ったのに。。
親父は「今日はありがとう」と、その一言と自分たちを残し
数分後に突然この世を去った。
衝撃だった。。
傍にいた自分が、それを見抜けなかったことが今でも悔しい。。
あれから数年。。少し気持ち的には落ち着いたが今思えばやり切れない部分もある。
しかし「ありがとう」が最後の言葉だったことが唯一の救いだったのかもしれない。
これが喧嘩別れだったら、この墜落事故の遺族のように、長い間苦しんだだろう。
でもね、ただ一つ。今も、そしてこれからも、親父に聞きたい言葉がある。。
「俺、いい息子だったかな?」
当時自分は11歳。
あのときテレビで見た衝撃は、阪神大震災の時同じくらいのものがあった。。
その墜落事故の遺族の方の記事が今日のヤフーニュースに掲載されていた。
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「そろそろ立ち上がらないと」=事故当日にけんか、責め続けた兄―遺族会活動に
「忘れることで逃げてきたが、そろそろ立ち上がらなければと思った」。1985年8月の日航ジャンボ機墜落事故で弟を失った美谷島真さん(38)。母邦子さん(63)は事故の約4カ月後、遺族でつくる「8・12連絡会」を発足させ、事務局長を務めてきたが、真さんはつい最近まで表立った活動はせず、取材も受けてこなかった。その背景には、封印したい記憶があった。
事故があった8月12日、当時13歳だった真さんは、高校野球観戦のため大阪に一人で旅立つ直前の弟健ちゃん=当時(9)=と、カードゲームに興じていた。ささいなことから口げんかになり、思わず「お前なんか帰って来るな」。そう口にした。健ちゃんは本当に帰って来なかった。
事故の一報が入ったその日の夜、「健は悪運が強いから絶対生きて帰って来るよ」。1歳年下の妹とそう励まし合いながら夜通し泣いた。一睡もできなかった。
自分のせいではないと分かっていても、弟のことが頭をよぎるたびに、「あんなことを言ったから…」と自責の念に駆られた。つらい気持ちから逃れるため、忘れようと努めた。
事故から25年を迎える今年、母が出版した「御巣鷹山と生きる」を読んだ。「安全」への取り組みに事故後の人生をささげる母の姿。両親が連絡会をつくった時と同じ38歳になったことも背中を押した。「事故を風化させないために、自分も何かすべきだ」
今夏から、連絡会のホームページの立ち上げ作業に携わるようになった。「できることから手伝ってほしい」。これまで何も言わなかった母が初めて声を掛けた。
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人は突然死ぬ。。
ほんの数分前まで言葉を交わしていたのに
一瞬でその命を奪われることがある。
その時交わした最後の言葉が、残された遺族の人生を左右することは
自分もよくわかっている。。
自分は親父と喧嘩をして家を出た。。絶縁ではないためその後も行き来はあったが
数年間、まともに口をきくことが出来なかった。。
しかし、あることをきっかけに、そのわだかまりがゆっくりとだが解けつつあった。
でもそんな簡単にうまくはいかないのが世の中。。
これからだんだんと親孝行をしようと心に誓ったのに。。
親父は「今日はありがとう」と、その一言と自分たちを残し
数分後に突然この世を去った。
衝撃だった。。
傍にいた自分が、それを見抜けなかったことが今でも悔しい。。
あれから数年。。少し気持ち的には落ち着いたが今思えばやり切れない部分もある。
しかし「ありがとう」が最後の言葉だったことが唯一の救いだったのかもしれない。
これが喧嘩別れだったら、この墜落事故の遺族のように、長い間苦しんだだろう。
でもね、ただ一つ。今も、そしてこれからも、親父に聞きたい言葉がある。。
「俺、いい息子だったかな?」
Posted by きよっち社長 at 11:23│Comments(4)
この記事へのコメント
もうあの日から、25年が経ってしまっ
たんですね。坂本九さんがお亡くなりに
なったのがショックでしたが、お一人お
一人、大事な命でした。あの時のTVのニ
ュース、映像が今でも目に浮かびます。
たんですね。坂本九さんがお亡くなりに
なったのがショックでしたが、お一人お
一人、大事な命でした。あの時のTVのニ
ュース、映像が今でも目に浮かびます。
Posted by ハンナ at 2010年08月12日 11:51
早いものですね、もうそんなに経ちますか。
当時10歳だった自分にも衝撃的な事故でした。
人の命は一瞬で消えてしまうこともありますから、その時その時を大切にしていきたいですね。。。
当時10歳だった自分にも衝撃的な事故でした。
人の命は一瞬で消えてしまうこともありますから、その時その時を大切にしていきたいですね。。。
Posted by オガサン at 2010年08月12日 12:54
>ハンナさん☆
コメントありがとう♪
本当に惨事でしたよね。二度と起こらないことを祈ります。
コメントありがとう♪
本当に惨事でしたよね。二度と起こらないことを祈ります。
Posted by てんちょーきよっち at 2010年08月12日 20:52
>オガサン☆
そう、ほんの一瞬で命は消えます。
だから大切に過ごしたいですよね^^
そう、ほんの一瞬で命は消えます。
だから大切に過ごしたいですよね^^
Posted by てんちょーきよっち at 2010年08月12日 20:53